婚前契約書のご相談で、いちばん多くいただく質問がこれです。「公正証書にしたほうがいいんでしょうか」。
先に当事務所の答えを書いてしまいます。多くの方は、私文書のままで足ります。 公正証書化のご依頼も承っていますが、こちらから積極的におすすめすることはしていません。
「専門家なら格式の高いほうを勧めるのでは」と思われるかもしれません。理由は費用や手間の話ではなくて、もっと中身に関わるところにあります。
公正証書にすると、契約の重心が財産の話に寄ってしまう
公正証書は、公証人という法律の専門家が作成する公文書です。法務省の説明にもあるとおり、争いを予防するための公的な仕組みで、書面の信用力は確かに一段上がります。
ただ、公正証書は法的な効力を前提にした書面です。だから作成の過程では、どうしても「法的な効力になじむ条項」が中心になっていきます。婚前契約でそれに当たるのは、財産の取り決めです。結婚前からの預貯金をどう区別するか、万一のときに財産をどう扱うか。このあたりは制度と相性がよく、条項としてもきれいに書けます。
制度の設計そのものも、そちらを向いています。公証役場に払う手数料は公証人手数料令で「目的の価額」に応じて段階的に決まる仕組みなので、契約をお金の額で測るところから話が始まります。
一方で、婚前契約で実際にいちばん効くのは、そこではないと私は思っています。
- 生活費をいくらずつ、どういう形で出し合うか
- 家事や育児を、どういう考え方で分担するか
- 転勤や転職、独立の話が出たとき、どう相談して決めるか
- お互いの実家との付き合い方、帰省の頻度
- すれ違いが起きたとき、どうやって話し合いの場を持つか
こうした毎日のことは、法的に強制できる性質のものではありません。裁判所に持ち込んで実現してもらう類の約束ではないからです。そうすると、法的効力を軸に整えていく過程で、優先順位がじりじり下がっていきます。財産の条項だけが立派に整って、生活の約束は数行だけ、という書面ができあがりやすいのです。
婚前契約書の値打ちは、ふたりで話し合ったことが、忘れない形で残っていることにあります。財産の部分だけが精巧で、毎日の暮らしの約束が置いていかれた書面は、たぶんおふたりの役には立ちません。それなら、両方を同じ重さで書ける私文書のほうがいい、というのが当事務所の考えです。
手間と実費のことも、正直に書いておきます
主たる理由は上のとおりですが、現実的な負担もあるので並べておきます。
- おふたりそろって公証役場へ出向く日が、平日に一日必要になります。 手続きそのものは30分から1時間ほどですが、共働きのおふたりが同じ平日に半休を合わせる、というのが実際にはいちばんの山です
- 原案が固まってから、公証役場との調整に2〜3週間ほどかかります。 入籍日や挙式から逆算すると、思っていたより早く動き出す必要が出てきます
- 公証役場に払う手数料の実費が上乗せになります。 婚前契約では数千円から数万円の範囲に収まることが多いです
- 当事務所の料金も変わります。 契約書のみの作成が250,000円(税込)、公正証書にする場合が270,000円(税込)で、これに上の実費が加わります
ひとつずつ見れば大した話ではありません。ただ、これが全部「結婚式の準備と引っ越しと役所の手続きが重なっている時期」に乗ってきます。その時間を、書面の形式を上げることではなく、話し合いそのものに使っていただきたい、という気持ちもあります。
たとえば、こういう内容なら私文書で十分です
実際のご相談から、ひとつ具体例を挙げます。
共働きで収入に差があるおふたり。生活費は完全折半だと不公平感が残るので、収入におおよそ比例させて6:4で共同口座に入れる。家事は平日の食事の支度を一方、休日の掃除と買い物をもう一方が受け持つことを基本にして、繁忙期は前の週に相談して入れ替える。それぞれが独身時代に貯めた預金と投資は、その方の固有の財産のままにしておく。将来どちらかの親の介護や同居の話が出たら、住まいを決める前に必ずふたりで話し合う。
この内容で、公正証書にする必要があるかというと、私は無いと思います。むしろこの5つのうち、公正証書にしたときに条項として残りやすいのは3つ目の財産の部分だけです。ほかの4つはおふたりの毎日そのものなのに、法的効力という尺度では測れません。測れないものを、測れる形に押し込まない。 そこが私文書を選ぶ意味だと思っています。
なお、夫婦の財産に関する取り決めそのものは民法に根拠のある制度です(夫婦財産契約)。第三者に対して主張したい場合には登記という別の手続きの話が出てきますが、これは公正証書にするかどうかとは別の論点です。ご自身のケースで関係してきそうかは、ご相談のときに整理してお伝えします。
それでも公正証書が向く場面
推さないと書きましたが、向いている場面がないわけではないので、そこは正直に書きます。
財産の区別や、万一のときの財産の扱いに重心があること自体が、はっきりしている場合です。たとえば、どちらかが事業をしていて資産の出入りが大きい、相続で受け取る予定の財産の範囲がはっきりしている、といったケース。契約の目的がもともとそこにあるなら、財産中心になることは欠点ではありません。書面の信用力が実際に問題になる場面も想定できますから、手間をかける意味があります。
もうひとつ知っておいていただきたいのが、あとから公正証書にすることもできるということです。まず私文書で作っておいて、資産の状況が変わったタイミングで作り直す、という段階的な進め方ができます。「いま決めきれないから、とりあえず重い形にしておこう」ではなく、「必要になったら、そのとき格上げする」と考えていただくほうが、実際の生活に合っています。
私文書でも、軽い書面にしないために
公正証書にしない場合、公証人のチェックが入らない分、書きぶりそのものが大事になります。当事務所でお作りするときに気をつけているのは、このあたりです。
- 日付と署名を入れて、おふたりが各自1部ずつ保管する。 どちらかの手元にしかない書面は、あとで扱いが弱くなります
- 金額や頻度を、数字で書く。 「生活費は応分に負担する」ではなく「甲は毎月◯万円、乙は毎月◯万円を共同口座に入金する」と書く
- 見直しの手順まで書いておく。 収入が大きく変わったときは協議する、という一文があるだけで、書面が現実から浮きにくくなります
- 効力の強い部分と、合意の記録として残す部分を、混ぜずに整理する。 分けて書くことで、生活の約束が「おまけ」に見えなくなります
進め方としては、最初にビデオ通話でおふたりの考えをうかがい、当事務所で原案を作り、メールで2〜3往復ほど整えて完成、というのが標準的な流れです。すべてビデオ通話とメールで完結しますので、全国からご相談いただけます。公正証書をご希望の場合は公証役場との事前調整まで当事務所で行いますが、まずは私文書で作ってみることをおすすめしています。
何を書くかについては、別のコラム「婚前契約書には、何を書くのか」に書きました。
「公正証書にしたほうがいいと言われたのですが」というご相談でも構いません。おふたりの事情をうかがって、必要そうかどうかを率直にお伝えします。ご相談はお問い合わせフォームから承っています。
出典・参考(いずれも行政機関の公表資料です)
- 公証制度について法務省
- 公証人手数料令(平成5年政令第224号)e-Gov法令検索
- 民法(明治29年法律第89号)※夫婦財産契約は第755条〜第759条e-Gov法令検索
本コラムは制度の一般的なご説明であり、特定の事案に対する法的助言ではありません。個別の事案についての法律判断・見通し、示談交渉、裁判手続の代理は行政書士の業務範囲外となりますので、必要な場合は提携の弁護士・税理士・司法書士をご紹介しています。
記載内容は執筆時点の情報にもとづいています。制度・運用は変わることがありますので、実際のお手続きの前に最新の情報をご確認ください。
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